Lesson 1-1 聖書の愛


 JWには迫害のため殉教した信者もいます。しかし、だから正しいとは限りません。宗教的不寛容や少数派への迫害というものは昔からあり、JWが昔に受けた迫害もその一つです。

 聖書をもう一度知り直してみることが大切です。

ヤコブ 3:1
あなた方の多くが教える者となるべきではありません。わたしたちがより重い裁きを受けることをあなた方は知っているからです。

 そしてJWの教えの基調を、もう一度知る必要があります。

ものみの塔 87/2/1「良いたよりを宣明するため力を尽くして励む」
しるしだけの奉仕に満足しているとしたら・・・辱められて「外の闇」に投げ出される人々の一人に数えられることになりかねません。

 さて、日本の多くの長老や監督は、この記事と同様のことをよく言ってきました。燃え尽きやうつ病に悩まされる人々が多いことは、あなたもよくご存知のことでしょう。

 エホバは、そのような教えを持つ方なのでしょうか? もちろん、そうではありません。JWが勝手に神の名を持ち出してきただけです。この点を聖書から考慮します。


使徒パウロの言葉

 確かにパウロは、非常に厳しい手紙を書いて送ったことが多い使徒です。もともとがパリサイ人出身ですので無理もありません。

コリント第一 9:26、27
わたしの打撃の仕方は空を打つようなものではありません。むしろ、自分の体を打ちたたき、奴隷として引いて行くのです。
コリント第一 9:24
競走の走者はみな走りはしますが、ただ一人だけが賞を受けることを、あなた方は知らないのですか。あなた方も、それを獲得するような仕方で走りなさい。

 当時のムチは非人道的な残酷なものでしたし、おそらくこの「競走」も、古代の過酷で過激な、命がけのレースのことでしょう。しかしパウロは、後に書いたコリント人への第二の手紙において次のように述べているので注意が必要です。そちらが最終結論だからです。

コリント第二 1:23、2:1、4
わたしがまだコリントに行かないでいるのは、あなた方に辛い思いをさせたくないからです。というのは、わたしは自分でこのように決めたからです。つまり、二度と悲しみのうちにあなた方のもとに行くことはすまい、と。わたしは多くの患難と心の苦もんから、多くの涙をもってあなた方に書いたのです。それはあなた方を悲しませるためではなく、わたしがあなた方に対して特に抱いている愛を知ってもらうためでした。
コリント第二 2:5
わたしの言うことが厳しすぎないようにしているのです・・・

 この手紙は、前にコリント会衆へ書き送ったコリント第一の手紙の続きであり補完です。この手紙の中でパウロは、自分の言葉が厳しすぎて辛い思いをさせ、悲しませたと述べています。自分の指導が過剰であったことを認め、二度とそのようなことはしたくない、と述べているのです。


JWの教えとパウロの教えの違い

 パウロの初期の過激な言葉は、JWの言葉と一見よく似ているように思えるかもしれませんが、パウロとJWの教えはもともと決定的に違います。

ローマ 3:28
わたしたちは、人は律法の業とは別に、信仰によって義と宣せられるとみなすからです。
ローマ 5:1
わたしたちは信仰の結果義と宣せられたのですから、わたしたちの主イエス・キリストを通して神との平和を楽しもうではありませんか。

 パウロは、人は信仰によって義と宣せられる、と述べています。そしてさらにこう述べています。義と宣せられるのは業(わざ)によらない無償の賜物であり、過分のご親切であると述べています。

ローマ 3:23‐24
すべての者は罪を犯したので神の栄光に達しないからであり、キリスト・イエスの払った贖いによる釈放を通し、神の過分のご親切によって義と宣せられるのは、無償の賜物としてなのです。

 無償の賜物、過分のご親切ですから、それは業(わざ)の多少によって少しも左右されるものではありません。そのことをパウロは説明しています。

ローマ 11:6
さて、それが過分のご親切によるのであれば、それはもはや業にはよらないのです。そうでなければ、過分のご親切はもはや過分のご親切ではなくなってしまいます。

 何か実績を積まなければ神に是認されない、と考えるのは、神の是認を労働に対する給料に例えるようなものであり、不適切です。パウロは、はっきりと業を行わなくても信仰心があれば、その信仰が義とみなされると言っています。

ローマ 4:4、5
さて、働く人に対して、給料は過分の親切ではなく、債務とみなされます。他方、業を行わなくても、不敬虔な者を義と宣する方に信仰を置く人に対しては、その人の信仰が義とみなされるのです。
ローマ 5:15
一人の人の罪過によって多くの者が死んだのであれば、神の過分のご親切と、一人の人イエス・キリストの過分のご親切を伴う神の無償の賜物とは、いよいよ多くの者に満ちあふれるからです。

 パウロは熱心な人でありましたから、もともと救いを保証してくださっている神に対して、よくよく感謝するように教えたいあまり、ときに過激な言葉を使って表現したのでしょう。これはJWの教えと全く違います。


信仰、救い、行い

 以上の教えは聖書の他の部分とも合っています。

 ダビデとソロモンについて思い起こしてください。

 ダビデは殺人を含めた重罪をいくつも犯しましたが、イエス・キリストに続く家系から外されることもなく、後代の聖書筆者からも尊敬をもって扱われています。

 ソロモンは異教徒の女性を何百人も妾にして、ついに異教崇拝者になりましたが、後代の聖書筆者から「賢王」と呼ばれています。(列王記第一11:1‐13参照)

 もちろん相応の罰は受けましたが、許しと救いは得ています。

 ロトも思い出してください。ロトは不敬、物質主義、信仰不足、近親相姦といった罪を犯しました。(創世記13:1‐19:38)しかし、ロトは本当は良い人でしたので、神に救われました。後代の聖書筆者は、義人ロトと呼んでいます。

 そうです。聖書の教えは本当の心・気持ちを何よりも重要視しています。

 聖書をちゃんと知れば、究極的つまり本質的には、エホバからの救いは当人のわざや働きにはよらないのものだ、ということが分かります。救いは純然たる贈り物です。人はあくまで義と「みなし」ていただけるのであって、実際には誰もその資格は持っていないわけです。それで良い、ということなのです。

 以上の教えは、イエスキリストの教えからも確認できます。

 処刑される前の最後の晩、イエスキリストは「弟子たちを義とみなす」と語られました。弟子たちは、あの重要な夜に、眠らず起きているということさえしませんでした。その晩だけではありません。イエスの生涯中、弟子たちは良くも悪くも普通の人でした。イエスが逮捕されて怖くなった使徒ペテロは、イエスを否定して、呪いさえしたのです。ただ、本当はイエスに対して愛情と愛着を持っていました。それがカギです。

 ですから「救いに値するよう努力しなければ救われない」などと考えてはなりません。


JWの聖句誤用

ヤコブ 2:26
霊のない体が死んだものであるように、業のない信仰も死んだものなのです。

 この聖句を「実績によって信仰を実証しなさい」という適用に用いるのは間違いです。他の聖句が述べているように、業は信仰の証明にならないからです。

ガラテア 3:11‐12
律法によってはだれひとり神にあって義と宣せられないことは明白です。「義人は信仰のゆえに生きる」とあるからです。また、律法は信仰を堅く守るものではありません。

 つまり、信仰は神に受け入れられる心の状態そのものであるのに対し、わざを行うことは心が伴っていなくてもできる、ということです。では、ヤコブ2章26節の意義とは何でしょうか。それは、心の中の信仰は必ず表に出てくるものだ、ということです。信仰は人に必ず影響します。心の内に信仰を持つ人は、どんなに控えめな人でもいつか必ず行動を起こします、という意味なのです。

 イエスも厳しいことを時々おっしゃいますので、JWでは聖句を誤用しています。

マルコ12:28‐31
書士の一人は、イエスが彼らにみごとに答えたのを知って、こう尋ねた。「すべてのうちどのおきてが第一ですか」。イエスはこう答えられた。「第一は『聞け、イスラエルよ、わたしたちの神エホバはただひとりのエホバであり、あなたは、心をこめ、魂をこめ、思いをこめ、力をこめてあなたの神エホバを愛さねばならない』。

 イエスは旧約聖書の申命記の記述を引用してこのように述べられましたが、イエスはこの言葉を傲慢で権力愛のパリサイ人や書士たちの挑戦に対する巧妙な返答として述べられた言葉であることを忘れると誤解します。

 例として、あなたが学校の先生であるとしましょう。素直で優しい生徒が相談にきた時と、あなたを憎み邪魔ばかりする他の教師があなたの敵として話し合いにやってきた時では、話す内容も言葉の調子も全く別のものになるのではありませんか。

 また、この部分に続く聖句も肝心です。

マルコ 12:33‐34
「この、心をこめ、理解力をこめ、力をこめて神を愛すること、また、隣人を自分自身のように愛するこのことは、全焼燔の捧げ物と犠牲全部よりはるかに価値があります」。するとイエスは、彼がそう明な答えをしたのを見て、「あなたは神の王国から遠くありません」と言われた。

 愛する感情や心、それは「捧げ物」や「犠牲」よりはるかに価値があるのです。ある人が神への愛を心のうちに持っているなら、それは必ずどこかでその人の行動に現れます。ですから心配はいりません。行動に全く影響しない愛、というものはないのです。人の心と行動の関係はそうなっています。つまり「業(わざ)のない愛は死んだもの」(ヤコブ2:26)です。

フィリピ 1:15‐17
確かに、そねみや対抗心によってキリストを宣べ伝えている者たちもいますが、他の者たちは善意によってそうしています。後者は愛の気持ちからキリストを言い広めています。彼らは、良いたよりの弁明のためにわたしがここに置かれていることを知っているのです。しかし、前者は闘争心からそうしているのであって、純粋な動機によるのではありません。

 心・感情・愛情こそ神への愛の本質であり、目に見える良いわざよりも価値のある事柄なのです。

コリント第一 8:2‐3
自分はあることについて知識を習得した、と考える人がいるなら、その人はまだ、知るべきほどにもそれを知っていません。しかし、人が神を愛しているなら、その人は神に知られているのです。

 苦しい業(わざ)によって愛を証明しなければならぬ、という考えは誤りです。イエスは、信仰の道の荷は物理的に事実、本当に軽いと述べておられるからです。軽く感じない者は信仰が足りない、などと精神論をおっしゃっているのではありません。

マタイ 11:29‐30
わたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。わたしは気質が温和で、心のへりくだった者だからです。あなた方は自分の魂にとってさわやかなものを見いだすでしょう。わたしのくびきは心地よく、わたしの荷は軽いのです。

 しかしJWはこの聖句を完全に逆に適用してきました。説明しなくても、もう、お分かりですね。

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