Lesson 2-1 事実



Q、統治体を疑うこと自体、サタンの罠に陥ることですが?

 違います。確かに、悪魔がクリスチャンを狙っていると聖書は述べていますが、次のような聖句があります。

ルカ 12:48
だれでも多く与えられた者、その者には多くのことが要求されます。そして、人々が多くをゆだねた者、その者に人々は普通以上を要求するのです。
ヤコブ 3:1
あなた方の多くが教える者となるべきではありません。わたしたちがより重い裁きを受けることをあなた方は知っているからです。
エフェソス 5:9‐10
光の実は、あらゆる善良さと義と真実さとから成っているのです。何が主に受け入れられるのかを絶えず確かめなさい。
ヨハネ第一 4:1
愛する者たちよ、霊感の表現すべてを信じてはなりません。むしろ、その霊感の表現を試して、それが神から出ているかどうかを見きわめなさい。

 自分が何を信じるかは自分だけでなく、家族や他の人にも大きく影響する事柄です。

 命を預けるライフラインの安全性を点検確認することは間違っていません。あの人も信じている宗教だからいいだろう、で片付けるべきではありません。


Q、このサイトの筆者は誤りを犯しています。自分の観察や思考に頼るべきではありません。そのようにすることを聖句は戒めていますが?

エレミヤ 10:23
エホバよ、地の人の道はその人に属していないことをわたしはよく知っています。自分の歩みを導くことさえ、歩んでいるその人に属しているのではありません。

 確かにこの聖句は深い真理です。人間と人生について熟考するなら、このような結論に達します。しかし、この聖句は「自分で判断せずに黙ってついてゆく」ように教えているのではありません。そのように適用することは神が愛と公正の方であると教える聖句と調和しません。自分の判断を捨てて組織の方針に全てを委ねることが最重要なのであれば、エホバが個々の人間に思考力や判断力、良心をお授けになった意味はなくなってしまいます。

箴言 14:12
人の前には廉直な道であっても、その終わりが死の道となるものがある。
エフェソス 5:9‐10
光の実はあらゆる善良さと義と真実さとから成っているのです。何が主に受け入れられるのかを絶えず確かめなさい。


Q、JW統治体の教理は聖書的ですよ?

 JWは頻繁に聖句を引用しますが、聖句が引用されていれば聖書的というわけではありません。何が本当にエホバのご意志でしょうか。イエスはこう述べておられます。

ヨハネ 14:6-10
「わたしは道であり、真理であり、命です。わたしを通してでなければだれひとり父のもとに来ることはありません」。フィリポが彼に言った、「主よ、私たちに父をお示しください」。

「フィリポ、あなたはまだ知らないのですか。わたしを見た者は、父を見たのです。どうしてあなたは『わたしたちに父を示してください』と言うのですか。わたしがあなた方に言う事柄は、独自の考えで話しているのではありません。わたしとずっと結びついておられる父が、ご自分の業を行なっておられるのです」。

 パウロはこう述べています。

コロサイ 2:9
キリストの中にこそ、神の特質の満ち満ちたさまが形を取って余すところなく宿っているからです。

 真のキリスト教なるものがあるとすれば、それはキリストの言動を何より重視し、それに基づいたものでなければなりません。古代イスラエル時代の基準は廃止されています。

ローマ 7:6
今やわたしたちは律法から解かれました。自分たちが堅く抑えられていたものに対して死んだからです。それは、霊によって新しい意味での奴隷となり、書かれた法典による、古い意味での奴隷とはならないためです。
ローマ 3:21
しかし今や、律法からは離れて神の義が明らかにされました。
ローマ 5:11
わたしたちはさらに、わたしたちの主イエス・キリストを通し、神にあって歓喜しています。このキリストを通して、わたしたちは今や和解を授かったのです。
ガラテア 3:10‐13
というのは、律法の業に頼る者は皆のろいのもとにあるからです。「律法の巻き物に書かれているすべての事柄のうちにとどまってそれを行わない者は皆のろわれる」と書かれています。さらに、律法によってはだれひとり神にあって義と宣せられないことは明白です。「義人は信仰のゆえに生きる」とあるからです。また、律法は信仰を堅く守るものではありません。むしろ、「それを行う者はそれによって生きる」とあります。キリストはわたしたちの代わりにのろわれたものとなり、こうしてわたしたちを律法ののろいから買い取って釈放してくださったのです。
ヨハネ 13:34
わたしはあなた方に新しいおきてを与えます。それは、あなた方が愛し合うことです。
ヨハネ第一 4:18
愛には恐れがなく、完全な愛は恐れを外に追いやります。恐れは拘束となるからです。実際のところ、恐れのもとにある者は愛の点で完全にされていません。

 神はその存在の本質そのものは過去も未来も変わらない方であるとしても(ヤコブ1:17)、物事の行い方は人間の必要や実状に合わせて変更してくださる方です。(創世記18:23‐33、エゼキエル4:12‐15、創世記8:21‐22)JWの教えは聖書的ではありません。単に聖句を切り貼りしているだけです。


Q、JWが神権秩序という特別な組織構造を持っていることについては?

 JWの言う神権秩序は、単なる封建秩序のことです。それは統治体というカリスマ集団をトップに置いたピラミッド組織です。トップが神の威を借り、神の権威をかざす点を除けば、JW組織は会社組織と同じです。特に個人の営業成績が重視される保険会社の組織構造によく似ています。JWは口先で神権組織なるものを演出しているだけです。


Q、JWのように有形無形の圧で信者を縛り続ける組織こそ聖書的なのでは?

 違います。使徒8章の、フィリポとエチオピアの宦官の事例を考えてください。

使徒 8:30-31
フィリポは並んで走り、彼が預言者イザヤの書を声を出して読んでいるのを聞いて、こう言った。「あなたは自分の読んでいる事柄がほんとうに分かりますか」。彼は言った、「だれかが手引きしてくれなければ、いったいどうして分かるでしょうか」そして、乗って、一緒に座るようにとフィリポに懇願した。
使徒 8:35-39
フィリポは口を開き、聖書のこのところから始めて、イエスについての良いたよりを彼に告げ知らせた。さて、彼らが道を進んで行くと、水のあるところに来た。すると宦官は言った、「ご覧なさい、水があります。わたしがバプテスマを受けることに何の妨げがあるでしょうか」。そうして彼は、兵車に、止まるように命令し、ふたりは共に、フィリポも宦官も水の中に下りて行った。そしてフィリポは彼にバプテスマを施した。彼らが水から上がって来ると、エホバの霊がフィリポを急いで連れ去り、宦官はもう彼を見なかったが、歓びながら自分の道を進んで行った。

 フィリポによる教えは短時間でしたが、JWによる拘束は死ぬまで続きます。


Q、JWと統治体のどこが聖書的でないと言うのですか!

 一例として、統治体員は衣食住が一生涯保障される特別な地位にいます。そこに生活や医療の心配は全く存在しません。世界各地への自由な旅行と常なる歓待と手厚い世話のもとにいて、特別な暮らしを保障されています。それは以下の聖句に反しています。

テサロニケ第一 2:9 
兄弟たち、あなた方は、わたしたちの労と刻苦とを覚えているはずです。わたしたちは神の良いたよりをあなた方に宣べ伝えましたが、それは、あなた方のだれにも費用の面で重荷を負わせないようにするために、夜昼働きながらのことでした。
テサロニケ第二 3:12
主イエス・キリストにあって命じまた勧めます。静かに働いて自分の労によって得る食物を食べなさい。

 聖書には「働き人は報酬を得る」(ルカ10:7)とありますが、これは良いたよりを宣明する人々全体に対する記述であって、聖書はクリスチャンの組織には特別な待遇を受けるべき指導的な人々がいるとは述べていません。聖書時代に世話を受けていたのは弱い立場の人々でした(ヤコブ1:27)。 パウロは「聖なる者たちへの募金」について言及していますが(コリント第一 16:1)、パウロ自身は自活して模範を示していました(使徒18:3)。

 それで、信仰と崇拝の点で人々を指導する人々が自活をしない、という状態は、聖書にかなうものではありません。


Q、統治体が聖霊の導きを受けていることを無視するのですか?

 聖書預言の解き明かしを調整したり、聖句の適用を変更することがあるということは、神の聖霊による導きは受けていないことを意味します。これは、イエスや使徒たちが、聖句の記述の適用・解き明かしを途中で調整や変更した例がない、という点から裏付けられます。

 また、このことを決定的に理解できる物語として次のような状況を想像してください。

「……ある父親は、自分が任命した家庭教師に対して、最初から自分の真意や意図を伝えません。家庭教師はなかなか父親の真意が分からないため独自の努力で、任命者たる父親の真意を模索します。父親は、自分の任じた教師が自分の意志を正しく理解せずに、間違いを子供に教えこむこともあるのを知っているのですが、その教師は「真面目で真剣」であるので、子供の命と人生すべてに対する全権を委ねます。その教師の間違った指導や行き過ぎた過剰な体罰も喜んで認めます。なにがあろうと、その家庭教師に我が子が従い続けるかどうかを観察し続けます。子供が必死で従っている指導や方針を教師がしばしば変更するのは、我が子の忍耐心と忠誠心を試すために良い機会であると考えています。そして、一生、その教師以外の誰も我が子に近づけません。子供にとって、その一人の教師だけを世界観・価値観のすべてとし、信頼できる知識の唯一の源とします。その父親は永遠に、その教師を通してだけ子供に接します。子供は父に愛されるため、命ある限り、無私の心でその教師に仕え、従い続けます……」

 さて、聡明な読者の方はもうお分かりですね。

ルカ 11:10,13
誰でも求めている者は受け、探している者は見いだし、まただれでもたたいている者には開かれるのです。・・天の父は、ご自分に求めている者に聖霊を与えてくださるのです。
ヨハネ 2:5
ほんとうに彼の言葉を守り行なう人、その人には真実に神の愛が全うされています。これによってわたしたちは、自分が彼と結ばれていることを知るのです。
列王記第一 8:27
それにしても、神は本当に地の上に住まわれるでしょうか。
ご覧ください、天も、いや、天の天も、あなたをお入れすることはできません。まして私の建てたこの家など、なおさらのことです!
ヨハネ 18:36
イエスは答えられた、「私の王国はこの世のものではありません」。


Q、この組織が世界的規模で一致していることは神の組織である証拠です。

 次の聖句を忘れてはなりません。

ヨハネ 18:36
私の王国はこの世のものではありません。
歴代第二 6:18
それにしても、神は本当に、人間と共に地の上に住まわれるでしょうか。ご覧ください、天も、いや、天の天も、あなたをお入れすることはできません。まして、私の建てたこの家などなおさらのことです。

 JWが世界的な組織を構築できたのは、既に世界で築かれていた「キリスト教」と「聖書」という2大ブランドの持つ名声と権威を借りたからです。

 また、世界的組織なら地球上にいくつもありますね。マルチビジネス組織アムウェイ、多国籍テロ組織アルカイダ。それらも世界で一致した多国籍組織です。つまり、世界的な組織という状況は、何らその信仰の妥当性を裏付けるものではありません。

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