Lesson 4-1 神・キリスト・聖霊


 神や主という言葉は聖書中に無数に出てきますが、非常に古い古代写本までさかのぼると、現在は「神」や「主」になっている箇所の多くには、もともとは“YHWH”と翻字できる古代語が記されているのだという事実は、一般の聖書解説書に出ています。普通に。

 ただし神の名の復元は予想に基づく仮のものです。エホバやヤハ、ヤーウェは百年前くらいまで通用していた伝統語法に過ぎません。かつて使われていた「Jehovah」は明らかに間違った復刻であることが明らかになったため、今は使用されなくなっています。和式発音「エホバ」については、悪いイメージ、つまり「エホバの証人」を連想させるために一般では使われなくなりました。そして英語圏でもJehovahについて同じ状況です。つまり「エホバ」を使わないのは常識と言えます。なぜですか。言語とは生き物です。何世紀も経過するうちに、言葉が大きく変わった事例は数多くあります。神の名前に関しては、神がその変化を許されたということです。なにしろ神は全能の方です。

使徒 17:24‐25
世界とその中のすべてのものを造られた神、この方は実に天地の主であり、手で作った神殿などには住まず、また、何かが必要でもあるかのように、人間の手によって世話を受けるわけでもありません。

 事実、新約聖書部分では、本文に神の固有名詞がある古代写本は現存しません。

 使いたければ個人的にエホバと呼ぶのは自由ですが、その言葉を使わなければいけない、と教えるのは間違いです。JW統治体があくまで「エホバ」にこだわるのは輸血拒否の問題と一緒で、教団の大看板だからです。エホバエホバと連呼されても神はお変わりになりません。神の名前に関しては、ぜひ独力で調べて見ることをお勧めします。もちろんJWのサイトでは不可能です。彼らは「エホバ(Jehovah)」という人間社会が廃した古語・廃語を最高神と崇める偶像崇拝者なのですから。


三位一体の教えについて

 JWは三位一体を、難しいとか、真の神から遠く引き離すもの、と言って非難してきましたが、それは誤りです。よく知らないで否定するのはよくありません。

 伝統的な三位一体の教えは、分かりやすくシンプルな教えであるのが特徴です。

 おおざっぱに言えば、カトリックや伝統的プロテスタントにおいては、父なる神、御子、聖霊はそれぞれ別の方々と理解して構いません。御三方には順位があり、それは父なる神、御子、聖霊の順です。

 ただし、別の方々ではあっても、それは普段の思考レベルにおいての話です。

 本質的・究極的に問い詰めて考える神学的レベルにおいては、御三方は同一の本質で重なっており、根は同じ存在、という教えです。

 たとえば聖書には御子イエスが父なる神に話しかける場面が数多くありますが、人としての普段レベルの理解では、これは普通に子が父に話しかけている場面と理解してかまいません。しかし復活後のイエスは弟子から神と呼ばれても、それを否定なさいませんでした。また、イエスを通してのみ神に近づけるという聖書の教えは、イエスが神に非常に近いことを物語っています。すぐ後で聖句を挙げますが、イエスは神と言って差し支えありません。

 一方で聖書は「神は唯一の方」とも言っています。もし父なる神と御子イエスの存在が別物であれば、「神」が複数おられることになってしまい、矛盾してしまいます。

 まず、三位一体の教えはこの矛盾を解決します。

 そして明治時代、内村鑑三という人は、三位一体によって神が愛であると確信できる、と説きました。彼は深く思索し、想像しました。広い宇宙・・・永遠の時の流れ・・・もし神が、ポツンと存在してきたとすれば・・・物質宇宙や人類など作るわけがないということなのです。単独で完結しておられるわけですから他者は要りません。他者がいないわけですから「愛」は存在できません。御子イエスも天使達も作ろうとは思わないはずです。なにしろ、「至高かつ完全な方」なのですから。

 しかし、もし「三位一体」であるなら、愛の存在の可能性を信じて良いことになります。

 つまり、三位一体は神が愛であられることを理論的に担保する理論なのです。そのため、多くの教会では三位一体を教えているのです。

 伝統的な三位一体の教えは、ぶれる聖書記述を調和させるためには必須の教えです。少なくともJWの教理よりずっと良くできています。


御子イエスについて

 イエスキリストが神と呼ばれるのは自然なことです。それだけの役割を、聖書はイエスに与えています。

ヨハネ 14:6
わたしは道であり、真理であり、命です。わたしを通してでなければ、だれひとり父のもとに来ることはありません。
ヨハネ 20:28‐29
トマスは彼に言った、「わたしの主,そしてわたしの神!」
イエスは彼に言われた、「あなたはわたしを見たので信じたのですか。見なくても信じる者は幸いです」。
ヘブライ 1:2‐3
神は彼をすべてのものの相続者に定め、また彼を通して事物の諸体制を作られました。彼は神の栄光の反映、またその存在そのものの厳密な描出であり、その力の言葉によってすべてのものを支えておられます。
ヨハネ 1:1‐3
初めに言葉がおり、言葉は神と共におり、言葉は神であった。この方は初めに神と共にいた。すべてのものは彼を通して存在するようになり、彼を離れて存在するようになったものは一つもない。
コリント第二 4:4
その人たちの間にあって、この事物の体制の神が不信者の思いをくらまし、神の像であるキリストについての栄光ある良いたよりの光明が輝きわたらないようにしているのです。

 このように聖書中で、イエスは神と呼ばれています。これは事実です。


聖霊について

 聖霊について述べる聖書記述は多くあります。

ペテロ第一 1:12
彼らは、天から送られた聖霊をもってあなた方に良いたよりを宣明した人々を通して今あなた方に発表されている事柄に奉仕しましたが、それが、自分自身のためではなく、あなた方のためであることを啓示されました。み使いたちは、実にこうした事柄を熟視したいと思っているのです。
ヘブライ 2:4
神は、数々のしるし、また異兆やさまざまの強力な業をもって、またご意志のままに聖霊を配ることによって、その証しに加わられたのです。
使徒 2:38
無償の賜物として聖霊を受けるでしょう。

 先人の苦心の傑作、三位一体論を無思慮に否定しながら、聖霊の存在についてJWはうまく説明できていません。JWでは聖霊を「神の特別な力」「神の力の流れ」と教えていますが、間違いです。聖書は聖霊を人格者としているからです。

ヨハネ 14:26
しかし、父がわたしの名によって遣わしてくださる助け手、つまり聖霊のことですが、その者はあなた方にすべてのことを教え、わたしが告げたすべての事柄を思い起こさせるでしょう。
マルコ 13:11
人々があなた方を引き渡そうとして引いて行くとき、何を話そうかと前もって思い煩ってはなりません。何であれその時に与えられること、それを話しなさい。あなた方が話しているのではなく、聖霊が話しているのです。
マタイ 28:19‐20
それゆえ、行って、すべての国の人々を弟子とし、父と子と聖霊との名において彼らにバプテスマを施し、わたしがあなた方に命令した事柄すべてを守り行なうように教えなさい。
使徒 15:28
聖霊とわたしたちとは、次の必要な事柄のほかは、あなた方にそのうえ何の重荷も加えないことがよいと考えたからです。
使徒 20:22‐23
そして今、ご覧なさい、霊に縛られてわたしはエルサレムに旅をしていますが、そこで自分に起きる事柄を知りません。ただ、どの都市においても、聖霊が繰り返しわたしに証しをし、なわめと患難とが待っていることを述べるのです。
エフェソス 4:30
神の聖霊を悲しませることのないようにしなさい。


筆者の新説

 先に述べたように、伝統的キリスト教の三位一体が現状で最善の理論ですが、どうしても三位一体が嫌、というJW信者さんは、筆者が考えた以下の仮説をお読みいただければ幸いです。

 神は強力な霊者です(ヨハネ 4:24)。つまり偉大で強力な霊体であられます。聖霊とは、神ご自身から切り出されるものなのでしょう。そのように考えると、聖霊について述べる数多くの聖句に手を加えずにすみ、自然に理解できます。聖霊とは単なる力の流れではなく、神の一部なのです。

マタイ 12:31‐32
人はあらゆる種類の罪や冒とくを許されますが、霊に対する冒とくは許されません。たとえば、人の子に逆らう言葉を語るのがだれであっても、その者は許されるでしょう。しかし、聖霊に言い逆らうのがだれであっても、その者は許されないのです。この事物の体制においても、また来たるべき体制においてもです。

 み子イエスに対する反逆よりも重い罪とは、一体どんな罪なのでしょうか。そうです、聖霊が、神ご自身の霊体の一部であればこそ、聖霊に対する罪はイエスに対する罪よりも重いとされているのに違いありません。

 もっとも、聖書自体、完全ではないのですから、このように執拗に聖句を追いかける必要もありません。音声チャンネルでは本章の内容をリライトしております。

会衆内のSOS

Since 2001

0コメント

  • 1000 / 1000